家事育児があると100%仕事にコミットできないという辛さ

2023年9月23日

今回は家事育児と仕事の関係についてです。

100%のリソースを仕事に割り振れない

父親、母親になるということは、100%のリソースを仕事に割り振れないということです。

余力を残す必要

独身のころであれば早朝から深夜まで働いて家に帰ったらバタンキューでも、個人的にそれでいいのであれば全く問題なし。

でも父親・母親になり家庭を持つということは、そういうことができなくなるということ。自分が持つ100%のリソースを仕事に割り振ったら家庭がアウトなのでダメです。

一生懸命できない

何かを「一生懸命やる」ということって、その他のことをある程度捨ててそのことに一心不乱に集中することだと思うんです。でもそれができない。

一生懸命できないって何だか「やる気がない」みたいな印象もありますが、家庭を持つということはそういうことだと思います。自分だけの問題では決してなく、「仕事が一生懸命できない」ってことです。これがどういうことか独身のころは十分には理解できてなかったなと今では思います。結婚してても理解できない父親・母親はきっといるでしょうけど……。

仕事のほうで「家事育児があるから一生懸命できません」と言いたいところですが、厚かましい・そんな事情しらねえ・家庭を持ち込むなんて・etc.の感想があるでしょうから、まだそういう時代にはなってない(少なくとも日本は)んだと思います。

家庭としてのキャパシティ

仕事におけるキャパシティというものが家庭の有無で全然違う。

仕事、家庭から求められるもの

近年、女性は仕事へ、男性は家事育児へ、積極的に関わっていくという流れです。

それは良いことだと思います。働くことで自己実現的なこともきっとあるでしょうし、親になったからには育児するもんでしょう。

でも今は以前と同じようなノリで仕事、家庭から求められるように思います。半々とかどっちかが多め・少なめとか、いい感じになってないんだよ!

個人ではなく家庭としてのキャパシティ

仕事があるから家事育児ができない、というのは容易に叩かれる時代になりました。

でも逆は?家事育児があるから仕事ができない、という主張ができるかどうかは仕事・会社による。

仕事をする中で余らせたリソースで家事育児はしますけど、家事育児して余らせたリソースで仕事というのがしにくい世の中です。仕事にかけられるリソースというのは個人の問題ではなく、家庭によって「個人にどのくらい仕事させられるか」というキャパシティがあると思う。

家事育児は年収0円である

つまり何かっていうと、家事育児いっぱいやってるんだから仕事のほうが楽にならんかなーということです。

どちらにより多く従事するかをリアルな数字(年収とか)で語ることができればいいんですが、それを家庭内で語るには時代がまだ追いついていないような気がします。

家事育児をしても金は入ってこないわけで、やっぱり年収0円なのである。家事育児を代行した場合にいくらかかるか、とか計算したところで、親が家事育児をやることで誰かが支払ってくれるわけではないから0円なのである。

収入が少なめでいいから楽な仕事がいいとか、年収多めだから家事育児はそこそこにとか、余計な感情抜きで話せるのがいいんだけどな。

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